日常はレイヤーなる世界

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東京に行ったついでに行こうと思っていた展覧会が、ひとつは打ち合わせのために訪れたギャラリーの駅の反対側で、もうひとつは夜に約束した店の近くだったので、短時間で回ることにした。
ひとつ目は明治から昭和初期にかけて奔放に生きた女性の生涯と乙女イラストを絡ませた展覧会で、その時代の女としての「濃さ」に圧倒されながら、一緒に見た同じ年の友人と最終的には死を美しく思うか否かという話になった。
彼女は作品に死を使うものはあまり好みではないと言い、私は死を扱うというより屍には興味があるというような話をした。
エロスに興味のある友人たちの中でも猟奇、死体、畸形、のジャンルはさらにマニアであるようだ。
友人に死と屍の違いを熱く語るうちに先日妻を亡くした某歌舞伎役者の話になった。
死をテーマにした作品の中で気に入らないのは「余命いくばく・・」という話だと私が言ったからだ。
私はテレビの前で涙を駄々流す役者に多少うんざりしており、しかし、世間の無くなった奥さんへの同情風潮から文句を言えないでいたところに話を振られたので、ここぞとばかり、役者の悪口になった。
友人は梨園の御曹司に生まれた身の上なら相当ストレスがあるだろうから仕方ないのではないかと言った。私は生まれながら役者であることを強制されてるわけだから、いちいち芝居臭くてもしかたないのかとちよっと腑に落ちた。どのみち、私たちが何を言おうと関係ない世界の人たちのことだが。
そのあと、彼女と別れてクエル兄弟の狂気的耽美な展覧会に夕立間際に滑り込み、陰鬱なのか感嘆なのかわからない気分のまま、時間つぶしに岩井志麻子の百物語というさらに鬱々とした短編集を買った。
二冊も買ったので東京からの帰り道はどっぷり岩井志麻子だった。
その中にストーカーに殺された女がストーカーが死んだあとも霊界でストーキングされるのを心配された親御さんたちに高僧が「心配しなくても娘さんと男は同じ場所にはいかない」と諭してほっとしたという話が妙に記憶に残った。
死後の世界でなくても、住む世界の階層が違うことはこの世でもあることだ。
経済的に活動する場所が違うから会わない人たちもいるが、かつてとても仲がよかったし、話も面白かったのに、何年か後には会う約束をしなくなり全く会わなくなることがある。
もしかしたらこの世は薄いレイヤーが重なりあって生活しているのではないかと空想する。レイヤーが違ってしまうと居ることはわかってるのだが会わないのだ。もっと遠いレイヤーになると音信も途絶えてしまうのではないか。
そんなことを考えながら夜行バスから戻って昼寝をした。
行ったのは東京だが、現実ではないところから戻ってきたような気分で目が覚めた。